2005.03.25 (Fri)
おにぎり (プロローグ)
思い過ごしだろうか?
母の顔色がどこかさえない、やはり心配してくれているのだろ
うか。
待っていましたとばかりに緑は芽吹き、
羽織っていたジャケットはクローゼットの奥にしまい込み
干した布団からは何とも言えない良い香りが立ち込める、太陽の匂いか?あれは
すきだ。 世間では新しい生活を始める人も多いこの季節自分なり
の一代決心で数週間前に会社を辞めた、そんな僕にも新しい生活が始まろうとし
ていた。
出発の2日前『自転車で行って来る』と告げてからお喋り好きの母の言葉数が明
らかに少くなっている。
「最近はさぁ、爺ちゃん婆ちゃんの海外一人旅も珍しくないん
だって、時代はかわったよなぁ、昔は憧れのハワイ航路なんて
言ってたのになぁ」
とそれとなく、この旅はいかに容易で安全であるかを母に伝えるのだが、やはり
心配してくれているのだろうか。
そういやできの悪い子供ほど可愛いと耳にした事があるがそう言うことなのか、
出来の悪さじゃちょっと自信がある、いくつに成っても僕は母の子供なのだ、い
くら努力しても母の年齢を超える事はできない、まぁ当たり前の話なんだけど。
グオングオンと洗濯機の音が奥の間を抜け鳴り響く午前、勝手口から荷物を満載
にした自転車を押し出す
「ウッ思ったより重ぞ」
その重みでタイヤが砂利に跡を残す、積み込んだと言うよりなんとか載せました
といった感じのてんこ盛りだ、はたして水彩画材や数種類の調味料なんて使うの
だろうか?
隙間さえあれば冷蔵庫、洗濯機まで詰め込む勢いの満載に少し苦笑してしまう、
とにかく思いついた物は全て詰め込んだ、いらなくなれば送り返せばいい、つい
でに食費を浮かすためにお腹一杯に朝食も詰め込んでいた
、冬眠前の熊じゃあるまいし。
これからよろしくなと相棒になる自転車のサドルに手を置く、母が家事の手を置
きそんな僕を無言で見届けている。
そんな母と目を合わせれずに思った
『ごめん、母さんには言えなかったけど実はこの旅ちょっと長くなりそうなんだ
』
そのうちばれる事だし、心配する顔を見たくなくてとうとう言い出せなかった、
伝えたのは
『3か月以上は帰ってこないと思う』と言う事だけだった、たぶん4ヵ月ぐらい
で帰ってくると思っているのだろうが、1年も10年も確かに3か月以上には違
いない、だました様でその事が胸にちチクッと刺さる。
旅に出るのを知っているのは2人の友達だけ
1人は旅好きのアキ、6年前に知り合い以来メールはするが会ったことは無い、
インターネットで旅先の情報などを送り僕をサポートしてくれると言う旅好きの
お姉さん、旅初心者の僕には心強い。
それと幼なじみのメガネ、どちらも頼りになる友達だ旅先で何かあったら助けて
もらおうと、彼らには旅の全容を話した。
まぁ旅の全容と言ってもまともな計画は一切ないんだけどね、
ちなみに自転車を持っていく理由もこれと言ってない、ただ電車、バスを使うと
大都市と観光地のDoor to Dooですぐに終わ
ってしまいそうに思えた
そして「君は○○○○遺跡を前にし 感動を覚えるに違いないだろう」
などと書かれたガイドブックをただ辿るのが癪にさわった。
それに旅にそれほど興味がある訳でもなく、旅好きの友達から「憧れの目的地に
辿り着いて涙があふれてきた」と言う話を聞かされて、そんな事で涙を流すほど
感動出来るのかと羨ましくも思えた。
僕は感動薄い損な人間なのかもしれない。
「じゃ母さん、行って来るよ」と自転車を跨ぐと
「ちょっと待って、おにぎり作るさかい、お腹すくやろう」
と母は家内にかけ戻った。
少しして母は僕の好きなほうじ茶の入った小さなペットボトルとアルミホイルに
包んだ3つのおにぎりを手にし戻ってきた。
母は目を真っ赤にし「梅入ってるから、日持ちするさかい」と両の手で僕に手渡
す
受け取ったおにぎりは温かく、お茶はまだ熱かった。
母さん本当に感謝です大事にいただきます、その言葉は飲み込み
「ありがとぉー、うわ旨そうー!フェリーで食べるわ」とヘラヘラ笑ってみせた
しんみりした空気にはしたくなかった。
僕はカメラなどを入れてあるハンドルの前に取り付けた貴重品バックにそれらを
押し込む、おにぎりの海苔が仄かに香った。
改めてハンドルを握りなおし「んじゃ、ちょっと行って来るわぁ」と僕はあえて
友達の家や買い物にでも出かけるような軽いあいさつをしてペダルに力を込めた
、ガレージに敷かれている砂利が重い自転車に押しつぶされ少しの間音を立て、
そしてどこまでも続く黒いアスファルトを蹴り始めた。
チラッと振り返ると母はティッシュで目元をぬぐい、胸の前で小さく手を振って
いた、
たった一人の見送りが母で良かったと思った。
右手を大きく振って答える、母は勝手口から表に出て、見えなくなるまでこっち
を見ていた、それを背中に感じた、そして僕は右に折れ母の視界から消えた。
行ってきます、そして無事帰ってきますよ、必ず!
それがこの旅のたった一つの使命の様な気がした。
フェリーターミナルまではたったの数十キロ、この日の為に少しのトレーニング
はしていたが到着した時にはもう足がパンパンだった、長いサラリーマン生活は
僕から体力のすべて吸い尽くしてしまっていた、安定した生活と引き換えに。
そして僕の旅は始まった。
3月25日 自転車を漕ぐと少し汗ばむ曇りのち晴れの日本より
母の顔色がどこかさえない、やはり心配してくれているのだろ
うか。
待っていましたとばかりに緑は芽吹き、
羽織っていたジャケットはクローゼットの奥にしまい込み
干した布団からは何とも言えない良い香りが立ち込める、太陽の匂いか?あれは
すきだ。 世間では新しい生活を始める人も多いこの季節自分なり
の一代決心で数週間前に会社を辞めた、そんな僕にも新しい生活が始まろうとし
ていた。
出発の2日前『自転車で行って来る』と告げてからお喋り好きの母の言葉数が明
らかに少くなっている。
「最近はさぁ、爺ちゃん婆ちゃんの海外一人旅も珍しくないん
だって、時代はかわったよなぁ、昔は憧れのハワイ航路なんて
言ってたのになぁ」
とそれとなく、この旅はいかに容易で安全であるかを母に伝えるのだが、やはり
心配してくれているのだろうか。
そういやできの悪い子供ほど可愛いと耳にした事があるがそう言うことなのか、
出来の悪さじゃちょっと自信がある、いくつに成っても僕は母の子供なのだ、い
くら努力しても母の年齢を超える事はできない、まぁ当たり前の話なんだけど。
グオングオンと洗濯機の音が奥の間を抜け鳴り響く午前、勝手口から荷物を満載
にした自転車を押し出す
「ウッ思ったより重ぞ」
その重みでタイヤが砂利に跡を残す、積み込んだと言うよりなんとか載せました
といった感じのてんこ盛りだ、はたして水彩画材や数種類の調味料なんて使うの
だろうか?
隙間さえあれば冷蔵庫、洗濯機まで詰め込む勢いの満載に少し苦笑してしまう、
とにかく思いついた物は全て詰め込んだ、いらなくなれば送り返せばいい、つい
でに食費を浮かすためにお腹一杯に朝食も詰め込んでいた
、冬眠前の熊じゃあるまいし。
これからよろしくなと相棒になる自転車のサドルに手を置く、母が家事の手を置
きそんな僕を無言で見届けている。
そんな母と目を合わせれずに思った
『ごめん、母さんには言えなかったけど実はこの旅ちょっと長くなりそうなんだ
』
そのうちばれる事だし、心配する顔を見たくなくてとうとう言い出せなかった、
伝えたのは
『3か月以上は帰ってこないと思う』と言う事だけだった、たぶん4ヵ月ぐらい
で帰ってくると思っているのだろうが、1年も10年も確かに3か月以上には違
いない、だました様でその事が胸にちチクッと刺さる。
旅に出るのを知っているのは2人の友達だけ
1人は旅好きのアキ、6年前に知り合い以来メールはするが会ったことは無い、
インターネットで旅先の情報などを送り僕をサポートしてくれると言う旅好きの
お姉さん、旅初心者の僕には心強い。
それと幼なじみのメガネ、どちらも頼りになる友達だ旅先で何かあったら助けて
もらおうと、彼らには旅の全容を話した。
まぁ旅の全容と言ってもまともな計画は一切ないんだけどね、
ちなみに自転車を持っていく理由もこれと言ってない、ただ電車、バスを使うと
大都市と観光地のDoor to Dooですぐに終わ
ってしまいそうに思えた
そして「君は○○○○遺跡を前にし 感動を覚えるに違いないだろう」
などと書かれたガイドブックをただ辿るのが癪にさわった。
それに旅にそれほど興味がある訳でもなく、旅好きの友達から「憧れの目的地に
辿り着いて涙があふれてきた」と言う話を聞かされて、そんな事で涙を流すほど
感動出来るのかと羨ましくも思えた。
僕は感動薄い損な人間なのかもしれない。
「じゃ母さん、行って来るよ」と自転車を跨ぐと
「ちょっと待って、おにぎり作るさかい、お腹すくやろう」
と母は家内にかけ戻った。
少しして母は僕の好きなほうじ茶の入った小さなペットボトルとアルミホイルに
包んだ3つのおにぎりを手にし戻ってきた。
母は目を真っ赤にし「梅入ってるから、日持ちするさかい」と両の手で僕に手渡
す
受け取ったおにぎりは温かく、お茶はまだ熱かった。
母さん本当に感謝です大事にいただきます、その言葉は飲み込み
「ありがとぉー、うわ旨そうー!フェリーで食べるわ」とヘラヘラ笑ってみせた
しんみりした空気にはしたくなかった。
僕はカメラなどを入れてあるハンドルの前に取り付けた貴重品バックにそれらを
押し込む、おにぎりの海苔が仄かに香った。
改めてハンドルを握りなおし「んじゃ、ちょっと行って来るわぁ」と僕はあえて
友達の家や買い物にでも出かけるような軽いあいさつをしてペダルに力を込めた
、ガレージに敷かれている砂利が重い自転車に押しつぶされ少しの間音を立て、
そしてどこまでも続く黒いアスファルトを蹴り始めた。
チラッと振り返ると母はティッシュで目元をぬぐい、胸の前で小さく手を振って
いた、
たった一人の見送りが母で良かったと思った。
右手を大きく振って答える、母は勝手口から表に出て、見えなくなるまでこっち
を見ていた、それを背中に感じた、そして僕は右に折れ母の視界から消えた。
行ってきます、そして無事帰ってきますよ、必ず!
それがこの旅のたった一つの使命の様な気がした。
フェリーターミナルまではたったの数十キロ、この日の為に少しのトレーニング
はしていたが到着した時にはもう足がパンパンだった、長いサラリーマン生活は
僕から体力のすべて吸い尽くしてしまっていた、安定した生活と引き換えに。
そして僕の旅は始まった。
3月25日 自転車を漕ぐと少し汗ばむ曇りのち晴れの日本より
2005.03.28 (Mon)
中国 Suzhou 便利グッズ

上海に着いてからずっと天気が悪く観光は銀行での両替と食事をする為に町をうろついたぐらい。
それにしても土地を埋め尽くすようなビル群、日本のそれらと違い個性あるデザインがなされている、西欧の気品をかもし出す美しい物、遊び心ある物も沢山目にするデザイナーを呼び寄せたのか?
僕が想像していた中国はここには無く、単調な人民服の影も形もない。
日本に来た旅行者が「サムライもハラキリもチョンマゲもア〜リマセン!」と言っている気持ちが分かるような気がする。
若者はズボンをずらしてはいたり、茶髪にしたりと日本と何ら変わりない、日本の漫画のキャラクターやサンリオ系も良く目にする、ますます日本っぽい、なのに◎×△□と話す。
せっかくの有名都市、上海に来たのだからもう一泊しようと思ったが、宿の人間は愛想悪く明らかに空室があるのにダブルの部屋しかないと言い張る、受付には余っているシングルの部屋のカギが掛かりっぱなしなのに、それに客も全然見あたらない。
昨夜は雨の中、右も左も分からず泊まる宿も思った様に探せず仕方なく180元のダブルの部屋に泊まった。
僕が「自転車を持っている、どこに停めればいい」と言うと、ずぶ濡れの自転車をみて、あからさまに嫌な顔をされた。
その上、天気が回復しそうにないので今朝8時頃小雨の中、進路を北西に取り最初の目的地に向かって自転車を走らせたのだ。
確かに上海は僕の想像とはかけ離れた近代都市になっていたが、昔テレビで見た自転車ラッシュは未だ健在だった、バス、タクシー、乗用車、バイクそして自転車が朝の交差点で入り乱れている、電気バイクが多いのには驚く、日本では全く見ないECOがここにはある。
とにかくその流れは半端じゃない、それが上海郊外まで続く、僕はそれらの流れにのみ込まれながら『これが中国かぁ』となぜか笑いが止まらなくなった。
旅が始まった、それを体で感じている、楽しい!それらがアドレナリンを引き出し感情を抑えられなくなりヘラヘラと笑ってしまう、相当やばい奴になっている。
中国の主要道は広く走りやすい、日本のそれとは違い車道の横に十分な自転車と歩行者のスペースが取られている。
都市郊外に出てからもビルや工場の建設ラッシュがずっと続く、この先この国は一体どうなって行くのか、日本の行く末が不安になるほどの経済発展を見せつけられる。
自転車の横を又トラックが資材を積んで走る、そのたびに細かい砂を巻き上げ目に入るし、喉も少し痛くなり、鼻クソもたまる、これがタクラマカン砂漠の黄砂なのか?
覚えたばかりの片言中国語は発音が悪いのか役立たなかったが、道行く人は皆協力的で何とかJun君の住むSuzhouにたどり着く、上海から北西に延びる主要道はこの一本、ここで間違いないはずだ。
もらった住所と電話番号の書いた紙を片手に公衆電から電話をかける、始めは彼が出ず女性が出て中国語でたたみ込む様に話され、対応できない僕をあやしく思ったのか電話を切られた。
おい!やっとここまで来たのにJun君出てくれよ、と焦る。
少しばかり時間を置いてからもう一度かけなおすと、又同じ人が電話に出た「Jun」という単語と「朋友」(友達)と言う単語を繰り返す、すると女性は電話を切らずに受話器から離れた、Jun君を呼びに行ってくれたみたいだ。
数十分後、高架下のバスの排ガスの匂いが漂う僕の待つ所まで彼が迎えに来てくれた、一安心。
Jun君、彼は日本での留学を終えた中国人で日本での就職が決まらず、中国で日本語を生かせる企業を見つけるためフェリーで帰国途中に僕に捕まった。
彼と話をしていると僕が今から走る道沿いに彼の家がある事が分かり、それで彼が僕を家に招待してくれたのだ。
彼の家はマンションの一階にあった、家族が総出で迎えてくれ、夕食には僕が来たとあってお母さんが御馳走を並べてくれた、どれも見たこともない料理ばかりだ、
味も初めて味わうものばかり旨い!これが中国の家庭の味かぁ、
お母さんが笑いながら話す「僕からの電話を取ったのは私でいたずらだと思って電話を切ってしまったわ」と食卓は和む。
お母さんは「遠慮せずもっと食べて」とせき立てる、jun君の兄弟も食卓につきますます賑やかになる、大勢で食べる飯は旨いなぁ
お母さん、jyuありがとうございます。
就寝はJun君の部屋を使わせてもらう、布団を用意してくれようとしたが僕はマットと寝袋を持っているのでとお断りして彼の部屋の片隅を借りる。
彼の部屋で横になりながら色々話す
彼は言う、
「なぜ仕事辞めて旅をする?そんなの無駄だ、お金貯めて結婚すべきだ」と
討論はしたが彼には旅の意味を理解してもらえなかった、いや僕が世間を理解していないのかも知れない。
日本では友達は出来なかったと言う彼、以心伝心、暗黙の了解、で調和を大切にする日本人には彼を受け入れるのは少し難しい様な気がした、
これが大陸の人間と言うものなのかな、それとも彼の性格なのか。
彼のベッドの下には綺麗な模様が描かれた小さいバケツぐらいの瀬戸物の壺が置かれていた、彼が花をさす様に思えない、気になって聞いてみた。
「これ一体何に使うの?」
「ここにおしっこするんだよ」と言う、ちらっと覗くと既に尿が入っている、部屋に小便が、、、、
「なぜトイレに行かないの?」部屋が臭くなるじゃないか、と言う言葉は飲み込む
「冬の夜は寒いだろ、わざわざトイレに行くのは大変だ、だからこれを使うんだよ。これはこの辺りから北の方の文化さ、北京でも皆使っているよ」と便利な一品を自慢するかの様に言う。
この辺りはトイレに行けないほど冬が寒いとも思えないけど、女性もこの壺を使っているのだろうか?
明日はJun君が蘇洲を案内してくれると言う、彼の話によると寺の拝観料はやたらと高い、こちらの平均日給の60%ぐらい取るらしい、共産圏の中国では日本の宗教法人のように特別待遇はなされていないのか、お布施や寄付はどうなっているのだろか、僕は明日この辺りの朝市も是非見たいと付け加える。
明日はゆっくり出来そうだ、丁度良い足がパンパンで動けそうになかったからだ、本当に筋力が落ちている。
現地の人の家に泊まるとその土地の習慣や風習、食べ物を初めとする文化が見えてくる、これは凄く興味深い、それに彼らを身近に感じられるようになる。
このような機会がこの先あるだろうか、とにかく彼には感謝だ、そしてお互い話疲れ眠りについた。
夜中2時頃か、彼がムクッと起きたかと思ったら寝たふりした僕の背中越しに聞こえてきた
「ジョジョジョジョジョジョ」
まさしく壺に小便をしている音だ、静寂の中それはやたらと耳元に感じる。
日本では絶対に流行らないな、この便利グッズ。
2005.04.01 (Fri)
南京 罰金
夕方この旅の最初の目的地に着いた、十年以上も前からいつかここを訪れたいと思っていた。
上海からここまでの道のりには大した坂も無く自転車が走る側道も十分あり、衰えた脚力には良い練習となった、日本を出る前スケートで走り込みをしたのだが自転車とは使う筋肉が少し違うようだ、でもすぐ慣れるだろう。
ただ尻が痛い、サドルでお尻が真っ二つ割れてしまった。
始めは真ん中が痛くなったので左尻で座る、それも痛くなったので右尻で座る、今はそれをうまくローテーションしながら座っているがそのうち限界が来そう、早く慣れると良いのだけど。
走っていて楽しみと言えばやはり飯の時間、日本では肉体労働では無かったので感じなかったが飯が旨い!
味わうというよりガッツクと言った感じで毎回食事に挑む、食べる時間は食堂が込み合っている時間をあえて狙って行く、どんなメニューがあって何が美味しいか分からないので、食堂に入った時美味しそうな物を食べている人を見つけて「ハオツゥ?」(美味しい?)と聞いてから「これと同じ物下さい」と頼むのだ。
メニュー表がなく客もいない場合は厨房を覗く、そうすると中国語が分からない僕に食堂の人が気付き、厨房に招いてくれて食材を見せて「何が食いたい?」と聞いてくれる、数品を指さし「炒めて」と言うとちゃんと味付けしたものが出来上がってくる、その店自慢の味付けをしてくれているのだろうかハズレはない、それに米。
時々スープも頼む、これがめちゃくちゃ旨い!しかし通常4に前なのでなかなか頼めない。
食事後はだいたい客や店の人の質問攻めにあう「何人?」「どこからきた?」「どこに行く?」「何歳?」などなど、
店を出る時は自転車に引っかけてある水筒を見てお茶入れてあげると言って古いお茶捨てて、新しいお茶に替えてくれたりする、そして「また来てね〜」と手を振ってくれる。
特に小さい町の小さい飯屋は人がすれてなくて好きだ。
今のお気に入りは路上屋台のパイナップル屋と砂糖黍屋(サトウキビ)。
パイナップルは1つ5元、僕が買うのは4分の1に切って箸に刺して売ってるパイナップル、もちろん皮がむかれている、器用にむかれたそれは芸術品の様にも見える、これが1本1元と安旨。
砂糖黍はばら売りしていないのでなかなか買えない、1本丸ごと買わなくてはいけなく普通約2メートル以上ある、それを包丁で皮を削り、その後40cmぐらいにカットしてビニル袋に突っ込んで手渡される。
食べる時はそれを噛む、すると甘い汁がじわっと口の中に出てくるのでそれをチューチュー吸う、残ったカスは道端にペッペッと吐き捨てる、だから砂糖黍屋の周りはいつも散らかっている、これが中国っぽくていい。
3本も食べると飽きてくるし手がベトベトになる。
こうした屋台でフルーツを売ってる人達はあまり儲かっているように見えないが、なぜか皆人当たりが良くニコニコしていて良い気分にさせてくれる。
目的地の都市は上海と同じようにビルが立ち並ぶ町だった、しかし緑の公園も良く目にする、上海より住み良さそうな印象がある。
道行く人に安宿を聞いて自転車を走らせているうち、うっかり交通整理をしている警官の目の前で信号無視をして捕まってしまった。
「車でさえ時々信号無視している国なのに」と思ったがそれは言い訳でしかない
僕と一緒に捕まった女子学生さんは警官と少し話した後、今にも泣き出しそうな不安を抱えた顔になった。
僕はその彼女に罰金はいくらか聞いてみると彼女は英語が少し出来るらしく、「50元」(約700円)と教えてくれた。
本当に罰金としてお金を没収されるのだろうかという疑問が湧く、と言うのも沢山の国で小遣い稼ぎの為警官が罰金を請求してくると言う話を聞いていたからだ。
僕は警官に「どうやって払えばいい?領収書は貰えるのか?銀行振り込みは駄目か?」と聞くと警官は全く英語が分からずたじろき始めた。
しめたと思い困った外人の振りをして英語で「もし罰金を払うなら領収書を下さい、私は今とても急いでいます、日暮までにホテルに入りたかったのですがまだホテルを見つけられません、日が暮れて私は不安です、助けて下さい」とまくし立てる様に言う。
ますます警官はたじろき始めた、そこで彼は捕まえた女子学生に通訳を言い渡した。
やばい言葉が通じる様になると逃られなくなる、もう少しだったのにと浅はかな思いがよぎる、彼女は僕が今凄く困っている事を警官に伝えてくれたのだろうか
「今回は大目に見てあげます、以後注意するように」と女学生が警官の言葉を震えた声で僕に告げる、それと同時に今までこらえていたのだろうか涙が彼女の瞳からどんどん溢れてきて頬をつたった。
50元の罰金は彼女には大きく両親に迷惑かける事を悔やんでいるのだろうか、それとも罪の意識からか?罰金を免れたのにもかかわらず素直に喜べなくなった。
僕は警官にありがとうと言ってその場を立ち去り、すこし行った所で自転車を止め彼女が警官から解放されるのを待った。
数分後解放された彼女は僕の方に向かって自転車を走らせて来た。
ちょうど僕の立っていた交差点の信号機が赤になったので彼女は僕の前で止まった、彼女のそばに自転車を寄せ話しかける
「先ほどはありがとう、助かりました」彼女の目の周りはまだ赤く腫れたようになっている
「……….」
「僕も罪を犯したし、その上君に助けられた、だから罰金の半分払わせて貰えませんか?」
僕には他に思い浮かぶ言葉、慰める言葉がなかった。
「ありがとう、でもいりません」
すべての通行車両が通り過ぎると、信号が赤にも関わらず僕たちの周りの自転車、歩行者は皆信号を無視して渡って行き、僕達二人だけが取り残された様に歩道橋を前に突っ立っていた。
「でも、それは不公平だ、僕も払いたいのです」
「ありがとう、でも必要ありません」
僕に視線を合わせる事も無くうつむき答える
青信号になると横断歩道を渡り彼女は都会の外灯の光に消えて行った、彼女の流した涙は中国の人を今まで以上に身近に感じさせてくれた。
それを見送ってから僕は又安宿を探しに自転車を走らせた。
中国に来て驚いた事の一つに日本人に対して敵意があまり見て取れない事がある、むしろ友好的な人が多い様にも思える。
しかしこの町はどうだろう
『南京』
小さい出来事ではあったが信号無視の一件でいきなり晴れない気分になった、この街に来る前からもっと大きな覚悟はしていたが。
上海からここまでの道のりには大した坂も無く自転車が走る側道も十分あり、衰えた脚力には良い練習となった、日本を出る前スケートで走り込みをしたのだが自転車とは使う筋肉が少し違うようだ、でもすぐ慣れるだろう。
ただ尻が痛い、サドルでお尻が真っ二つ割れてしまった。
始めは真ん中が痛くなったので左尻で座る、それも痛くなったので右尻で座る、今はそれをうまくローテーションしながら座っているがそのうち限界が来そう、早く慣れると良いのだけど。
走っていて楽しみと言えばやはり飯の時間、日本では肉体労働では無かったので感じなかったが飯が旨い!
味わうというよりガッツクと言った感じで毎回食事に挑む、食べる時間は食堂が込み合っている時間をあえて狙って行く、どんなメニューがあって何が美味しいか分からないので、食堂に入った時美味しそうな物を食べている人を見つけて「ハオツゥ?」(美味しい?)と聞いてから「これと同じ物下さい」と頼むのだ。
メニュー表がなく客もいない場合は厨房を覗く、そうすると中国語が分からない僕に食堂の人が気付き、厨房に招いてくれて食材を見せて「何が食いたい?」と聞いてくれる、数品を指さし「炒めて」と言うとちゃんと味付けしたものが出来上がってくる、その店自慢の味付けをしてくれているのだろうかハズレはない、それに米。
時々スープも頼む、これがめちゃくちゃ旨い!しかし通常4に前なのでなかなか頼めない。
食事後はだいたい客や店の人の質問攻めにあう「何人?」「どこからきた?」「どこに行く?」「何歳?」などなど、
店を出る時は自転車に引っかけてある水筒を見てお茶入れてあげると言って古いお茶捨てて、新しいお茶に替えてくれたりする、そして「また来てね〜」と手を振ってくれる。
特に小さい町の小さい飯屋は人がすれてなくて好きだ。
今のお気に入りは路上屋台のパイナップル屋と砂糖黍屋(サトウキビ)。
パイナップルは1つ5元、僕が買うのは4分の1に切って箸に刺して売ってるパイナップル、もちろん皮がむかれている、器用にむかれたそれは芸術品の様にも見える、これが1本1元と安旨。
砂糖黍はばら売りしていないのでなかなか買えない、1本丸ごと買わなくてはいけなく普通約2メートル以上ある、それを包丁で皮を削り、その後40cmぐらいにカットしてビニル袋に突っ込んで手渡される。
食べる時はそれを噛む、すると甘い汁がじわっと口の中に出てくるのでそれをチューチュー吸う、残ったカスは道端にペッペッと吐き捨てる、だから砂糖黍屋の周りはいつも散らかっている、これが中国っぽくていい。
3本も食べると飽きてくるし手がベトベトになる。
こうした屋台でフルーツを売ってる人達はあまり儲かっているように見えないが、なぜか皆人当たりが良くニコニコしていて良い気分にさせてくれる。
目的地の都市は上海と同じようにビルが立ち並ぶ町だった、しかし緑の公園も良く目にする、上海より住み良さそうな印象がある。
道行く人に安宿を聞いて自転車を走らせているうち、うっかり交通整理をしている警官の目の前で信号無視をして捕まってしまった。
「車でさえ時々信号無視している国なのに」と思ったがそれは言い訳でしかない
僕と一緒に捕まった女子学生さんは警官と少し話した後、今にも泣き出しそうな不安を抱えた顔になった。
僕はその彼女に罰金はいくらか聞いてみると彼女は英語が少し出来るらしく、「50元」(約700円)と教えてくれた。
本当に罰金としてお金を没収されるのだろうかという疑問が湧く、と言うのも沢山の国で小遣い稼ぎの為警官が罰金を請求してくると言う話を聞いていたからだ。
僕は警官に「どうやって払えばいい?領収書は貰えるのか?銀行振り込みは駄目か?」と聞くと警官は全く英語が分からずたじろき始めた。
しめたと思い困った外人の振りをして英語で「もし罰金を払うなら領収書を下さい、私は今とても急いでいます、日暮までにホテルに入りたかったのですがまだホテルを見つけられません、日が暮れて私は不安です、助けて下さい」とまくし立てる様に言う。
ますます警官はたじろき始めた、そこで彼は捕まえた女子学生に通訳を言い渡した。
やばい言葉が通じる様になると逃られなくなる、もう少しだったのにと浅はかな思いがよぎる、彼女は僕が今凄く困っている事を警官に伝えてくれたのだろうか
「今回は大目に見てあげます、以後注意するように」と女学生が警官の言葉を震えた声で僕に告げる、それと同時に今までこらえていたのだろうか涙が彼女の瞳からどんどん溢れてきて頬をつたった。
50元の罰金は彼女には大きく両親に迷惑かける事を悔やんでいるのだろうか、それとも罪の意識からか?罰金を免れたのにもかかわらず素直に喜べなくなった。
僕は警官にありがとうと言ってその場を立ち去り、すこし行った所で自転車を止め彼女が警官から解放されるのを待った。
数分後解放された彼女は僕の方に向かって自転車を走らせて来た。
ちょうど僕の立っていた交差点の信号機が赤になったので彼女は僕の前で止まった、彼女のそばに自転車を寄せ話しかける
「先ほどはありがとう、助かりました」彼女の目の周りはまだ赤く腫れたようになっている
「……….」
「僕も罪を犯したし、その上君に助けられた、だから罰金の半分払わせて貰えませんか?」
僕には他に思い浮かぶ言葉、慰める言葉がなかった。
「ありがとう、でもいりません」
すべての通行車両が通り過ぎると、信号が赤にも関わらず僕たちの周りの自転車、歩行者は皆信号を無視して渡って行き、僕達二人だけが取り残された様に歩道橋を前に突っ立っていた。
「でも、それは不公平だ、僕も払いたいのです」
「ありがとう、でも必要ありません」
僕に視線を合わせる事も無くうつむき答える
青信号になると横断歩道を渡り彼女は都会の外灯の光に消えて行った、彼女の流した涙は中国の人を今まで以上に身近に感じさせてくれた。
それを見送ってから僕は又安宿を探しに自転車を走らせた。
中国に来て驚いた事の一つに日本人に対して敵意があまり見て取れない事がある、むしろ友好的な人が多い様にも思える。
しかしこの町はどうだろう
『南京』
小さい出来事ではあったが信号無視の一件でいきなり晴れない気分になった、この街に来る前からもっと大きな覚悟はしていたが。
2005.04.02 (Sat)
中国 南京 リーベン
目覚めは早かった、荷物をまとめ昨夜泊った南京大学を後にする、
向かうは博物館、そう日本兵が中国市民を虐殺した事実を展示しているあの博物館だ。
もう10年以上も前の事になるだろうか、たまたま付けたテレビ番組で漫画家の水木茂さんが南京を訪れていた、
彼もいつかはここを訪れてみたいと達っての願いだったように覚えている。
その番組で初めて彼に左腕が無いのを知った、多くの戦友と共にラバウル戦線で失ったと言う、そして生き証人である彼が戦争の愚かさを語った。
その頃の僕は海外になど全く興味が無く、世界は自分を中心に回っていた、しかしその番組が小さな一石を僕の心に投げた事はだいぶ後になって気付く事になる、
戦争とは武力を持ち殺し合う事、しかし南京は戦場では無かった、その事は知っていたが改めてその事実を突き付けられた様に思えた番組だった。
ここに来る事によって僕の中で何かが解決するとは思えなかたが、この機会を逃すと歯に何かが詰まった様に、心の中に小さな何かが詰まった様な気持ちの悪さをずっと引きずって行く様な気がした、ここに来れば解決の糸口が見つけられるかもしれないと安易な期待をしたのかもしれない
世界地図の本は持っているが南京の細部が分かる地図を持ってはいないので町行く人に道を尋ねながら自転車を走らせる、進むにつれ
「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」と書かれた大きな看板をあちらこちらで目にするようになる、何と読むかは分からないが内容は見て取れる、否が応でも近づいている事が分かる。
白っぽい高い塀に囲まれてそれはあった、町から離れた所を想像していたが町の真ん中にある、事件のあった頃もここには市民の生活がいつもの様にここで行われていたのだろう、門をくぐると大きな駐車場があり観光バスが沢山停まっていた。
僕は自転車に荷物を積んだまま館内に入るつもりなので、なるべく狙われそうに無く、奪われそうに無くそれでいて目立つ所を探していると、自転車管理のおじさんが小さい管理所の隣に駐輪スペースを作ってくれた。
そして「私達が見張っていてあげるから、心配しなさんな」と笑顔で言ってくれる、
謝謝 (ありがとう)
その間にも沢山の観光バスが博物館にやって来きては、乗客が館内吸い込まれて行く。
僕は貴重品の入ったバッグだけ肩にかけ、自転車から博物館の入り口に向かって歩きだすと自転車管理のおじさんが僕の背中越しに訪ねてきた
「どこから来ましたか?」僕は答えたが彼には聞こえなかったらしく、初めより少し大きな声で「どこから来たの?」と再び聞いてきた、僕はおじさんに聞こえるように胸を張って大きな声で答えた
「 リーベン 」(日本)
するとおじさんの笑顔は消え、周りにいた観光客、入口のチケットを渡すお姉さん、ガードマン、皆が一斉に僕の方に振り向いた、一瞬目の前の時間が止まったように見えた。
入館は無料、館内は日本軍の侵攻地図、殺された人の数、遺品、それらを表現したオブジェ慰霊碑、死者の安らぎを願うロウソク、花束、そして土に埋もれた人骨も展示されていた、それらは中国語、英語、日本語で説明されている。
それらは皆「戦争が悪」では無く「日本が悪」と表現されている様にぼくには思えた、プロパガンダの様に思える所も無いわけではない、
しかし一部の人の中ではまだこの憎むべき出来事が現在進行形として心の片隅に黒い影を落としているのだ、いたたまれない。
年々規模が大きくなってきていると言うこの博物館、死者の数と平和と言う文字が印象に残った。
中国の発表では43万人いや60万人の虐殺があったとしているが、実際はこの当時南京には43万と言う人口は無く多くて20万ぐらいの犠牲者だと言うのが有力な説になっている、この事を指摘する人がいるけれどそれは話の主旨のすげ替えにしか思えない。
それでも20万と言う途方もない数だ、この事をもっと考えなければならないし、教科書にも事実として取り上げなければならない、沖縄の問題もそうだ。 理解するのは難しいだろうが、それについて学び初めて否定するなら否定、肯定なら肯定する権利が生まれると思う、そして被害者は我々と同じ人間で子供も含めた一般市民だった。
もっと考える余地はある、歴史とは骨董品では無い。
中国政府にも気付いて欲しい、日本がした事と何ら変わりのないことをチベットや少数民族に今なお行っている事を、僕はまだ天安門事件の映像を覚えている。
たんたんとした感じで館内を回っていたが、いつの間にか疲れていた、ベンチで一休みしていると30分ほど寝てしまった、起きて又館内を回った空腹も忘れていた。
今この瞬間もこの地上のどこかで戦争が起こっている、人間にとって反省から教訓を得るのはそんなに難しい事なのだろうか。
ここ南京はある意味日本よりオープンだ、恋人たちは町中で抱き合ったりキスしたり。
今日はユースホステルに泊まる事に、10元(200円ぐらい?)と言った安い宿もあったが外国人である僕は利用できなかった、中国は外国人をホテルに止める場合政府の許可が必要なのだ。
僕の行った川沿いのユースホステルは100%西洋化、アメリカのロックがガンガンかかり中国らしさは全くない、とにかくアメリカ=かっこいいと言う 日本にもある薄っぺらい方程式がここにも成立している、朝もトースト、コーヒーから始まる。
リゾート気分で来た西洋の人には人気があるが、中国らしさが好きになって来た人には抵抗を感じるのではないだろうか?
茶室でコカコーラを飲むような感じがして何か勿体ない。
僕は市場や出店で地元の人にまぎれ粥、豆乳、中国風揚げパンにかぶりつく、食は最も大きい文化の一つだと思う、寿司やすき焼きの様に。
(そう言う僕は、この数日後ハーゲンダッツで至福の時を過ごすのだが)。
この日の夜ユースホステルで本を読んでいる僕に、中国の女子大生が絡んできた、彼女は頭っから日本人を敵視していて、僕が何を言っても聞く耳持たない。
日本と中国について議論を交わしたいのではなく、日本を罵倒したいだけだとすぐ分かった、彼女は自分が提案する解決論も持っていない。
中国に対するODAも知らなかったし、人の命は金で買えないと言う、確かに腹水盆に返らずだ、じゃ金を払わないけど戦争の非を国民全てが認め反省したらあなたは納得するのか?と言うとそれも首を横に振る。
日本軍が去った後、毛沢東の文革で間接的に死にいたった人間は200万人と聞いている、4人組も捕まったのにこの国の紙幣には毛沢東が描かれている、なぜ?と聞くと。
「私は毛沢東が大嫌い、でもそれは中国の問題だから、日本人が口出しする事では無い」とひと蹴り、少しは自分の行為に矛盾のある事に気付いただろうが、抜いた刀は振り下ろさないと気が済まないみたいだ。
まぁ日本にも右翼、ドイツにもネオナチがいまだに根付いているので強い事は言えないけど、ちなみに日本の教科書では第2次大戦はアメリカによって敗戦したとあるが、中国では我々が日本を倒したとあるらしい。
彼女は昼間の疲れに追い打ちを掛けてくれた。
向かうは博物館、そう日本兵が中国市民を虐殺した事実を展示しているあの博物館だ。
もう10年以上も前の事になるだろうか、たまたま付けたテレビ番組で漫画家の水木茂さんが南京を訪れていた、
彼もいつかはここを訪れてみたいと達っての願いだったように覚えている。
その番組で初めて彼に左腕が無いのを知った、多くの戦友と共にラバウル戦線で失ったと言う、そして生き証人である彼が戦争の愚かさを語った。
その頃の僕は海外になど全く興味が無く、世界は自分を中心に回っていた、しかしその番組が小さな一石を僕の心に投げた事はだいぶ後になって気付く事になる、
戦争とは武力を持ち殺し合う事、しかし南京は戦場では無かった、その事は知っていたが改めてその事実を突き付けられた様に思えた番組だった。
ここに来る事によって僕の中で何かが解決するとは思えなかたが、この機会を逃すと歯に何かが詰まった様に、心の中に小さな何かが詰まった様な気持ちの悪さをずっと引きずって行く様な気がした、ここに来れば解決の糸口が見つけられるかもしれないと安易な期待をしたのかもしれない
世界地図の本は持っているが南京の細部が分かる地図を持ってはいないので町行く人に道を尋ねながら自転車を走らせる、進むにつれ
「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」と書かれた大きな看板をあちらこちらで目にするようになる、何と読むかは分からないが内容は見て取れる、否が応でも近づいている事が分かる。
白っぽい高い塀に囲まれてそれはあった、町から離れた所を想像していたが町の真ん中にある、事件のあった頃もここには市民の生活がいつもの様にここで行われていたのだろう、門をくぐると大きな駐車場があり観光バスが沢山停まっていた。
僕は自転車に荷物を積んだまま館内に入るつもりなので、なるべく狙われそうに無く、奪われそうに無くそれでいて目立つ所を探していると、自転車管理のおじさんが小さい管理所の隣に駐輪スペースを作ってくれた。
そして「私達が見張っていてあげるから、心配しなさんな」と笑顔で言ってくれる、
謝謝 (ありがとう)
その間にも沢山の観光バスが博物館にやって来きては、乗客が館内吸い込まれて行く。
僕は貴重品の入ったバッグだけ肩にかけ、自転車から博物館の入り口に向かって歩きだすと自転車管理のおじさんが僕の背中越しに訪ねてきた
「どこから来ましたか?」僕は答えたが彼には聞こえなかったらしく、初めより少し大きな声で「どこから来たの?」と再び聞いてきた、僕はおじさんに聞こえるように胸を張って大きな声で答えた
「 リーベン 」(日本)
するとおじさんの笑顔は消え、周りにいた観光客、入口のチケットを渡すお姉さん、ガードマン、皆が一斉に僕の方に振り向いた、一瞬目の前の時間が止まったように見えた。
入館は無料、館内は日本軍の侵攻地図、殺された人の数、遺品、それらを表現したオブジェ慰霊碑、死者の安らぎを願うロウソク、花束、そして土に埋もれた人骨も展示されていた、それらは中国語、英語、日本語で説明されている。
それらは皆「戦争が悪」では無く「日本が悪」と表現されている様にぼくには思えた、プロパガンダの様に思える所も無いわけではない、
しかし一部の人の中ではまだこの憎むべき出来事が現在進行形として心の片隅に黒い影を落としているのだ、いたたまれない。
年々規模が大きくなってきていると言うこの博物館、死者の数と平和と言う文字が印象に残った。
中国の発表では43万人いや60万人の虐殺があったとしているが、実際はこの当時南京には43万と言う人口は無く多くて20万ぐらいの犠牲者だと言うのが有力な説になっている、この事を指摘する人がいるけれどそれは話の主旨のすげ替えにしか思えない。
それでも20万と言う途方もない数だ、この事をもっと考えなければならないし、教科書にも事実として取り上げなければならない、沖縄の問題もそうだ。 理解するのは難しいだろうが、それについて学び初めて否定するなら否定、肯定なら肯定する権利が生まれると思う、そして被害者は我々と同じ人間で子供も含めた一般市民だった。
もっと考える余地はある、歴史とは骨董品では無い。
中国政府にも気付いて欲しい、日本がした事と何ら変わりのないことをチベットや少数民族に今なお行っている事を、僕はまだ天安門事件の映像を覚えている。
たんたんとした感じで館内を回っていたが、いつの間にか疲れていた、ベンチで一休みしていると30分ほど寝てしまった、起きて又館内を回った空腹も忘れていた。
今この瞬間もこの地上のどこかで戦争が起こっている、人間にとって反省から教訓を得るのはそんなに難しい事なのだろうか。
ここ南京はある意味日本よりオープンだ、恋人たちは町中で抱き合ったりキスしたり。
今日はユースホステルに泊まる事に、10元(200円ぐらい?)と言った安い宿もあったが外国人である僕は利用できなかった、中国は外国人をホテルに止める場合政府の許可が必要なのだ。
僕の行った川沿いのユースホステルは100%西洋化、アメリカのロックがガンガンかかり中国らしさは全くない、とにかくアメリカ=かっこいいと言う 日本にもある薄っぺらい方程式がここにも成立している、朝もトースト、コーヒーから始まる。
リゾート気分で来た西洋の人には人気があるが、中国らしさが好きになって来た人には抵抗を感じるのではないだろうか?
茶室でコカコーラを飲むような感じがして何か勿体ない。
僕は市場や出店で地元の人にまぎれ粥、豆乳、中国風揚げパンにかぶりつく、食は最も大きい文化の一つだと思う、寿司やすき焼きの様に。
(そう言う僕は、この数日後ハーゲンダッツで至福の時を過ごすのだが)。
この日の夜ユースホステルで本を読んでいる僕に、中国の女子大生が絡んできた、彼女は頭っから日本人を敵視していて、僕が何を言っても聞く耳持たない。
日本と中国について議論を交わしたいのではなく、日本を罵倒したいだけだとすぐ分かった、彼女は自分が提案する解決論も持っていない。
中国に対するODAも知らなかったし、人の命は金で買えないと言う、確かに腹水盆に返らずだ、じゃ金を払わないけど戦争の非を国民全てが認め反省したらあなたは納得するのか?と言うとそれも首を横に振る。
日本軍が去った後、毛沢東の文革で間接的に死にいたった人間は200万人と聞いている、4人組も捕まったのにこの国の紙幣には毛沢東が描かれている、なぜ?と聞くと。
「私は毛沢東が大嫌い、でもそれは中国の問題だから、日本人が口出しする事では無い」とひと蹴り、少しは自分の行為に矛盾のある事に気付いただろうが、抜いた刀は振り下ろさないと気が済まないみたいだ。
まぁ日本にも右翼、ドイツにもネオナチがいまだに根付いているので強い事は言えないけど、ちなみに日本の教科書では第2次大戦はアメリカによって敗戦したとあるが、中国では我々が日本を倒したとあるらしい。
彼女は昼間の疲れに追い打ちを掛けてくれた。
2005.04.03 (Sun)
中国 申し子

南京を離れると又田舎の風景が広がった、今度は杭州を目指す。
フェリーで知り合った中国人のおじさんが杭州を絶賛していたからだ、他国の政治家が訪中すると中国側は美しい杭州に招待すると言う、中国では南京以外考えていなかったのでその案に従う事にした。
方角的には上海に戻る様な形になる、やはり自転車で走っていて楽しいのは田舎だ。
自転車を止め、コンクリで打ち付けられた公衆便所に入る、ポットン式で便器の穴越しに排出物がたっぷり見える、用を足していると便を回収する人がやって来て長い柄の付いたひしゃくですくい始める。
日本では江戸時代から排出物は貴重な肥料とされており、それにはランクがあり良い物を食べている商人や武家の栄養満点の排出物は高い値段で、貧しい人の物は安い値段で引き取られていた、だから江戸の裏路地にはそれが溢れる事はなくヨーロッパの様にペストや奇病が流行らなったと言う、ランク付こそないがここではまだそれが息づいている。
有機肥料は畑焼けもなく土質改良にもなるし、複合汚染の心配もない、古くから伝わる完璧なリサイクルシステムだ。
回収のひしゃくが便器越しにチラッ見える、もちろん便を回収する穴と用を足す所は別個になっているのでお尻を見られる事はないが生まれたてを見られるのは何かこっ恥ずかしい。
僕の申し子達よ中国の大地で美味しい物を育てるるがいい!


